

先ごろ創業95周年を盛大に祝ったばかりの荒井呉服店は、大正2年に荒井与三氏が開業。荒井芳枝さんはその長女として生まれ、夫となった荒井末男氏とともに戦火で焼失した店舗を建て直し、八王子でも指折りの店に育て上げた。店を守り子育てをしながら、町の復興に尽力した夫を支え続け、またボランティア活動にも心血を注いだ荒井芳枝さんは、戦後の働く女性の先頭集団を走る人でもあった。日本を代表する音楽クリエーター・松任谷由実さんのお母様でもある荒井さんに、女性の立場から見た八王子について、また教育についての貴重なお話をうかがった。



そうなんです。お父さんが数えで30、私が22でした。8つ違いだからお父さんって感じね(笑)。去年(2006年)2月2日に亡くなるまで65年間一緒でした。主人は第二国民兵(徴兵検査基準の丙種「身体上極めて欠陥の多い者」との評価)でしたが八日町の在郷軍人会の会長で、井桁屋さんが副をやっていらしてね。戦局が悪化して第二国民兵も召集されて、町内では5、6人がいわゆる弾除けとして最前線のバリ島やサイパン、沖縄に送られていましたが、主人は幸い横須賀にいて戦地には送られませんでした。それは私が毎週隠匿物資を持って面会に行って、教範長と懇意にしていたおかげもあったと思います。私は荒井呉服店の一人っ子の跡取りなので、父が快く行って来いと送り出してくれました。
八王子が昭和20年8月1日(2日未明)の空襲で丸焼けになったとき、私のお腹には今のうちの社長(荒井邦彦代表取締役)がいたんですよ。その上にも4歳の子がいましたが、その子が先天性脱臼で歩けないのを背負って、八日町からうちのお墓がある散田の妙経寺の防空壕まで逃げたんです。
翌日火が消えてから、うちまでたどりたどり戻ってきましたが、私は兄弟も親戚も無くて、ここへ戻ってくるより仕方無かったんです。焼夷弾の煙のせいか、涙がぽろぽろ出て止まらなかったですね。でも悲しいとかそういう感情は全くありませんでした。今考えるとよくそんな体で歩いたと思うけれど、やっぱり若かったんですね。
ただ、結局その4つの子を10月の4日に栄養失調で亡くしてしまってね。体が弱かったから白米をずっとあげていて、だから配給の玄米を一所懸命ついて食べさせても消化が悪くて、私が噛んでやったのをあげても受け付けなかったんです。その時が一番悲しかったですね。
主人の復員は終戦後すぐの8月23日でした。もう八王子は何にも無くて。主人の田舎の引田(あきる野市)から馬小屋を持ってきて建てて、八日町は焼け野原にうちとお隣のお茶屋さんだけが暮らしているような状態がしばらく続きました。
もちろん、お米もみんな配給で、手のひらにちょっとの玄米が貰えるだけ。それだけでは飢え死にしてしまいますから、みんな“闇(闇市)”をやりましてね。うちも川向こうの焼け残った機屋(はたや)さんから反物を闇で仕入れて京都に売ったりしました。主人はもともと「縞買(しまかい:織物の仲買商。八王子で力があった)」の番頭をしていましたので、反物の買い付けは慣れていたし伝手が多かったんです。でもうちは町内のまとめ役で、黙ってというわけにもいかないから警察に行きましてね。こういう時だから闇をやらざるを得ない、と言うと、堂々とおやりなさいとは言えないけれどしょうがない、なんて言われてね。
ただ戦後、ああ、日本はこれから素晴らしくなるんだ、という夢はみんなにあったんですね。だから頑張ろうっていう気持ちはとてもありました。八日町ではうちが最初に商売を再開して、まわりの皆さんもだんだんと疎開先から帰ってきました。
少し落ち着いてくると店に横田とか立川ベースの将校さんがいわゆるパンパンと呼ばれた女性と来たりして、明日アメリカに帰るから一晩で洋服を作ってくれと頼まれて、疎開しておいたシンガーミシンを持ってきて一晩徹夜で作って売ったりしました。1日1着はさすがに無理だけれど、それに近いぐらい働きましたね。
ただ、米軍の人たちは日本円を持っていないので、代わりに服地を渡されて、余ったものは使っていい、という形でした。それから代金代わりにモリスとかキャメルのタバコをダンボール一箱持ってきてくれたり。服地はかなり余るのでそれを売って、タバコは中町がぼちぼち出来てきて、気風のいい芸者衆が結構な値段で引き取ってくれて、一年ぐらいで当時としては立派な二階家を建てることが出来たんです。
ところが焼け跡で目立つから、すぐ税務署が帳面を見せろって来たんです。その人たちはうちにマージャンをやりに毎日来ていたんですよ。八王子は他に行くところが無かったですから。何かあげると賄賂になるから私もマージャンを覚えてもうひたすら振り込み専門でした(笑)。それが今日は仕事だからお茶もいらない、って言ってね。帳面はお父さんが持って熱海に逃げちゃってて(笑)、私が応対しましたが、全部闇で建てたようなものですから、持っていかれたらもう生きて行けません。子供を亡くしてどうとでもなれっていう気持ちもあって、これ全部闇ですから、闇で付けてください、いくらでもいいですからって堂々と言ったらびっくりしてましたね。正直に言ったからなのか、当時の普通の評価をつけてくれたんです。
そういう生活をしているうちに、だんだんと“闇”が消えて行ったんです。京都のほうもだんだん復興してきて徐々に繊維業界が動くようになって、それから一時、繊維関係が本当に売れた時期がありました。みなさん全然着るものが無かったですからね。
会長(荒井末男氏)はほとんどうちのことより外の仕事の方が多かったですね。その分、店のほうは私が見ることになりましたが、商売は嫌いじゃなかったし、お客さんに少しでもセンスのいいものを着ていただきたくって一所懸命でした。ただただ、お客様にサービスして、同時にお店もそれによって繁盛させていただいたんです。そんなふうに夫婦で協力してやって来たおかげで、うちは八日町で最初に鉄筋3階建てのビルを建てた中の一つでした。
商人としては本当にいい時代でしたね。若かったし仕事も頑張りましたけど、よく飲みましたね。一晩でジャックダニエルを1本空けちゃったり(笑)。仕入れに行って安くしてもらったお礼に六本木の俳優が集まる店に連れて行って飲んで夜中に帰ってきたりしてね(笑)。30から40代の頃です。働きながら楽しませてもらいました。
会長は、戦後3代目の町会長ですが、大変な時期に八日町をよくまとめたと思います。本当に今考えると大したものだな、と思いますよ。よそのことをすごく頑張って、店のことは私に任せっぱなしでしたが、でも何をしようと私ってものを信じてくれた。本当に人間的に大きな人だったと思います。八日町会館もお父さんが中心になって建てたんですよ。明治45年生まれのぎりぎり明治人ですけれども、こういう人はもう出ないと思いますね。身びいきに聞こえるかもしれないけれど、夫婦だって他人ですものね。客観的に見て尊敬してなければ一緒にはいられませんよ。